唯一無二の芸術 "陶彩画" 販売サイト

  • 陶彩画とは

    陶彩画の世界

有田焼より生まれた陶彩画

有田焼の手法を用いながら、作家 草場一壽の独自の発想と技法で完成した焼き物の絵画です。
それは草場の30数年にわたる研究の成果として、高い評価を頂くまでに至りました。
陶彩画は、白い陶板に絵付けをして焼成し、その上から違う色の絵付けをしては焼成し、十数回にも及ぶ窯入れを繰り返しながら絵を描いていきます。

水も油もなじまない陶器の板への緻密な絵付け、窯の温度調整から時間配分、制作過程は考え得るすべてを注ぎ込む緊張のとき。
にもかかわらず、窯に入れたあとは「火に託す」という人間の思惑の届かない世界です。そうして出来上がったものは、ときに作り手のイメージをはるかに凌駕して、まばゆい光を放ちます。
仕上がりの偶発性をある程度考慮しつつも、窯の中で溶け合う釉薬が生み出す色彩は、まさに奇跡。同じ色が生まれることは二度とありません。

陶彩画ができるまで

  • 下地完成

    下地完成

  • 絵付け 1回目

    絵付け 1回目

  • 絵付け 2回目

    絵付け 2回目

  • 絵付け 3回目

    絵付け 3回目

  • 絵付け 4回目

    絵付け 4回目

  • 絵付け 5回目

    絵付け 5回目

  • 絵付け 6回目

    絵付け 6回目

  • 絵付け 7回目

    絵付け 7回目

  • 絵付け 8回目

    絵付け 8回目

  • 絵付け 9回目

    絵付け 9回目

陶彩画とは

陶彩画 藤飛天

陶彩画とは

髪の毛1本程(0.1~0.2mm)の細い線を描く絵付けと焼成を巧みに繰り返す事で、花びら一枚一枚にふくよかな質感が生まれます。 最終工程では、細かい紋様や金の装飾品には純金を用い丁寧に磨き上げています。

陶彩画における「守・破・離」

日本の文化には「型」という価値観があります。
武道や伝統文化など、「道」において、この型を習得することが学びの重要なプロセスですが、そのプロセスにはまた、「守・破・離」という発展過程があります。

まずは師匠(伝統)の教えを「守」るところから始まります。
しっかりと身に着けた後は、教えにこだわらず他流をも研究し、守ってきた型を「破」って、心と技を発展させます。
さらに進むと、「破」も意識せず、独自の境地をきりひらいていく「離」の段階となります。

では、陶彩画における「守・破・離」とは―――。
有田焼400年の伝統に則って技法を学んだ段階が「守」です。
その技法を用いながら「陶彩画」という焼き物の絵画を構想し、実現していく段階が「破」です。
無謀だ、無理だと言われるチャレンジの中、技術的なことも難しかったことにあわせて、作品のテーマも重要な時期でした。

そして、チタンに注目し、現代では幻の輝きとして失われたペルシャのラスター彩なども取り入れて、七色に変化する色の表現に成功。それが「離」の段階に当たると思います。釉薬や焼成の研究を重ねて、陶彩画は唯一無二の芸術として確立できたのです。

銀化したラスター彩

銀化したラスター彩

「破」の段階まで20数年。そこからまた10年の歳月をかけて、「離」の段階に・・・。
伝統に学び、伝統に留まらず、それを破り、また離れて。
陶彩画というひとつの世界(芸術)があらわれました。

自在 “輝き”へのあこがれ 「スパークリング グレイズ」

「守破離」から「自在」へ。
私はいま、「輝き」に魅了されています。光ではなく、「輝き」です。

光を追えばかたちがあらわれますが、影を追ってもかたちはあらわれます。
光は影によってなりたち、影はまた光によってなりたちます。
しかし、常に「動き」「変化している」という世界の本質の中で、光と影というように対置させる二極的な見方に意味があるだろうかと考えます。
太極(大調和)は無極でもあり、陰陽は二相一対なのですから。

では輝きとは―――。

それこそが光と影のせめぎあい(間)から生じてくるものです。
生と死の間と言い換えてもいいでしょう。私たちが立っているのは、常にその「間」です。
見えない世界を可視化してくれるのが輝きであり、「極楽」というものがあるとすれば、その輝きをいうのでしょう。
生と死の間から出てくる輝きこそは、いのちのきらめきそのものです。

一瞬としてとどまるものはなく、みな刻々と移り変わっています。生の醍醐味はまさに、その変化の中にあるのです。
輝きに憧れ、輝きに魅了され、そうして(変幻)自在の境地にいたります。
自由には不自由という対の言葉がありますが、自在にはありません。
自在も「輝き」と同じく、私たち(生と死と分かつことのできない、いのち)の本質だからです。

輝きへの憧れが「離」の段階から「自在」へと私を導いてくれました。
新たな作品は、「スパークリング グレイズ」と名付けた、変幻自在の輝きこそを陶彩画のエッセンスとして表現するものです。
この新境地をいのちへのめざめ、生への熱望と言ってもよいでしょう。
好きな言葉にするなら「あこがれ」。「憧」。こころを童のように無垢にして、素直に求める道(輝き)を歩みたいと思います。
ただ、この一瞬一瞬のきらめきを追いかけて。

陶彩画「龍の玉 如意宝珠」制作の想い

「龍の玉 如意宝珠」も新たな試みとして蓄光素材を陶彩画に焼きこむ技法の研究によって制作しました。蓄光素材は、光を吸収して蓄え暗闇でエネルギーを放出し光るという仕組みにより、明るいところでは見えなかったものが暗くすることで、可視化できるようになります。
この素材を用いて作った「如意宝珠」は、明るい部屋では鮮やかな色彩の作品ですが、部屋の電気を消すと突如、如意宝珠(龍の玉)が現れるという仕掛けです。

蓄光素材に興味深いものを覚えたのは、私たちの生命エネルギーのように肉体はなくなっても魂は残る、与えていただいた愛は形を変えてあり続ける、というまさにいま私がテーマと感じていることそのものだからです。
見えるものだけを追いかけていては、本当に大事なものは見つからない。私たちの中に刻まれた「いのち」の記憶もまた、見えはしないけれど、確かにあること、その大いなる意味を今一度実感として取り戻したい、そんな思いも込めています。

左:明るい室内で見た時の作品  右:光を蓄えた状態で暗い室内で見た時の作品

左:明るい室内で見た時の作品  右:光を蓄えた状態で暗い室内で見た時の作品

さて、龍が追いかけている(握っている)玉を如意宝珠といいます。読んで字のごとく思いや願いを意のままに叶える力があります。では、それはどこにあるのでしょう?
自分の願いを意のままに叶えてくれるのは、カネや権力だと思うのは現代の幻(錯覚)です。カネや力で叶う願いは果たして、大いなる意志(いのち)に沿ったものでしょうか?

天意(いのちの働き)のままに私が誕生しました。なにも持たず、非力な姿で、泣き声をあげながら、世界に抱き留められて誕生したのです。宇宙開闢から始まった大いなる物語の主人公のひとりとして。私がいることで、物語は進行します。私は完全の一部であり、私はまたひとつの完全ないのちです。 

探すから見つからない龍の玉。
私(あなた)が龍であり如意宝珠(龍の玉)であることを、秘められた光の中に読み解いていただければ幸いです。

陶彩画「龍の玉 如意宝珠 -大調和-」

陶彩画「龍の玉 如意宝珠 -大調和-」

x